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「フォーカシング」で無意識に押し込めた思いが飛び出した

2025年6月25日

身体の中で起きている感覚を頼りにして、自分自身にふれていく「フォーカシング」。

私が初めて行った「フォーカシング」は、それはそれは、不快極まりないものでした。

ですが、そのときの体験を通して、「身体の感覚に注意を向けると、無意識に押し込めた思いが飛び出す」と気づいたことについて、お伝えします。

 

自分の身体に意識を向ける「フォーカシング」とは?

 

「フォーカシング」は、アメリカの臨床心理学者、ユージン・ジェンドリンが、編み出した方法です。

身体の中で起きている感覚(気になる感じ)を頼りにして、自分自身にふれていきます。

自分をより深く知ることができ、自己成長や悩みの克服をうながすと言われています。

 

手続きは、以下の通り。

①身体の内側に注意を向ける。
目をつぶり、頭のてっぺんからつま先まで、身体の部分に、上から順番に注意を向けていき、どんな感じがするか、見ていく。

②身体の中で、「気になる感じ」があるかを見つける。

③「気になる感じ」に、ピッタリくる言葉を探していく。
「気になる感じ」に、『〇〇な感じなんだね』と声をかけ、ピッタリくるかどうか、確認する。

④「気になる感じ」を、じゅうぶんに味わう。

⑤終わりにする。

 

「フォーカシング」「マインドフルネス」は、体験するものが、似ている気がします。

 

ちなみに、「マインドフルネス」は、「今起きていること」に注意を向けていくこと。

「フォーカシング」同様、ゆっくり深呼吸をしながら、目をつぶったほうが、「今起きていること」に注意を向けやすくなります。

ただ、「マインドフルネス」の場合、身体の感覚だけでなく、周りの音、自分の中に起きてくるイメージ(映像)など、感じとる範囲が広い印象です。

 

「フォーカシング」での不快極まりない体験

 

私が、初めて「フォーカシング」を体験したのは、大学院(臨床心理学専攻)の授業。

イスに座って目をつぶり、教授のガイドのもと、自分の身体に注意を向けていきました。

 

まずは、頭から順番に、身体の内側に注意を向けるプロセス。

その後、「一番気になる感じは、身体のどこにありますか」とガイドされた途端。

 

両肩のつけねから、両腕が切断されたかのように、感覚がなくなる。

イスに座ったままの身体が、ぐるんと前方向に、一回転する。

吐き気がこみあげてくる。

 

それを伝えると、ガイドをしていた教授から、目を開けるよう言われました。

教科書的には、「変性意識」、つまり、「異常な意識状態」。

「フォーカシング」では扱わない、「対象外の体験」です。

 

深呼吸をしてから、目をつぶり、再び「フォーカシング」のプロセスに入ると。

またもや、両肩のつけねから、両腕がなくなってしまうという感覚が生じました。

ところが、しばらく身体の感覚を感じ続けていくと、太ももの上に、手のひらの感覚が現れてきます。

 

肩のつけねから手首まではないのに、手のひらだけが存在している。

何とも言えない、イヤ~な感じ。

すると、肩のつけねから、赤い管のようなものが、手のひらに向かって、ヘロヘロと伸びていく。

 

血管のような、筋肉繊維のような、赤黒いひも状のものが、伸びていく。

肩のつけねと手のひらが、赤い管でつながり、ちょっとホッとした、そのとき。

頭の上のほうから、「私を責める女性の声」が、聞こえてきました。

 

こんなのは、フォーカシングじゃない!

ここちよい、自分への気づきを深めるようなものでないといけない!

他の学生も、げんなりしている!

大学院にまで来て、この程度だなんて、情けない!

 

終わった時には、ぐったりしていました。

 

やっぱり私は、ダメな人間なんだ。

 

他の学生はみな、「リラックスした」など、ここちよい体験を報告しています。

不快な体験をしたのは私だけ。

ひとりで取り残されたような、みじめな気持ちになりました。

 

無意識に押し込めた思いが飛び出してきた

 

身体の感覚に注意を向けると、無意識に押し込めた思いが飛び出してくる。

身体と無意識は、つながっているんだ。

 

大学院生だった当時は、「フォーカシング」での不快な体験について、何も考えていませんでした。

ですが、最近になって、気づいたことがあります。

 

不快極まりない身体感覚に現れていた自分の課題

両腕が肩のつけねから消えてなくなり、ぐるんと前方向に、一回転するといった、「不快極まりない身体感覚」

今思うと、身体が、「こんなに大変な状態なんだ!早く気づけ!」というメッセージを放出してきたと言えます。

 

「フォーカシング」に取り組むまで、私は、自分の身体に注意を向けることが、全くありませんでした。

自分の身体はおろか、自分自身を大切にするとか、いたわるといった意識がなかったとも言えます。

 

私の意識は、「母に褒められるような立派な人間になること」に向かっていました。

 

母にののしられ、罵倒され続けた過去を引きずる。

「立派な人間になれるはずがない」と、未来に不安を抱える。

「立派な人間にならなきゃ」という思いで、今を全速力で走り抜ける

「今ここにある自分」に意識を向けることはない。

 

身体には、「自分を大切にしていない」といった私の課題が押し込められていたに違いありません。

そのため、身体の感覚に注意を向けた途端、私の課題が「不快極まりない身体感覚」となって飛び出してきたのです。

 

※「両腕が肩のつけねから切断されてなくなる」という身体感覚に込められた、別のメッセージについては、こちら。

 

私を責める女性の声に現れていた自分の課題

上のほうから誰かに声をかけられたように、ハッキリと聞こえた「私を責める女性の声」

当時は、「幻聴が聞こえた」と思うほど、ゾッとするような体験でした。

 

今なら、分かります。

これは、私の母の声です。

母の思い通りにならないと、気が済むまで、私を罵倒し、ののしった母の声。

 

大学院を修了してから、20年近くにわたって自己探究を続けた結果。

私が苦しい思いをする根底に、「自責の念(自分を責める内なる声)」があることに気づきました。

 

母の言動を取り入れ、私自身を鼓舞する部分が、この「自責の念」。

私が立派な良い人間になれるよう、いきり立っている部分でもあります。

そして、私の母と同様、相手を鼓舞するために、容赦ない言葉でののしるという方法しか知りません。

 

「自責の念」が嵐のように吹き荒れるため、とてもではないけれど、自分を大切に思う余裕がもてない。

「自責の念」によって、心が削れに削れ、地獄の業火に焼かれるような苦しみにさいなまれる。

 

私が自分の身体に注意を向けたときに、聞こえてきた「私を責める女性の声」。

「生きづらいと感じる原因は、自責の念です!」と、私の根本的な課題を知らせてきたのです。

 

 

身体の感覚に注意を向けると、無意識に押し込めた思いが飛び出してきます。

私の場合、不快極まりない身体感覚や自分を責める声を通して、私自身の課題が浮き彫りにされました。

一方、過去にツライ体験を重ねた人でも、身体の感覚に注意を向けると、穏やかで温かい感覚が出てくることがあります。

「自分に必要なものはこれです」という形で、無意識に押し込めた思いが出てくるのかもしれません。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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