「フォーカシング」で無意識に押し込めた思いが飛び出した
身体の中で起きている感覚を頼りにして、自分自身にふれていく「フォーカシング」。
私が初めて行った「フォーカシング」は、それはそれは、不快極まりないものでした。
ですが、そのときの体験を通して、「身体の感覚に注意を向けると、無意識に押し込めた思いが飛び出す」と気づいたことについて、お伝えします。
自分の身体に意識を向ける「フォーカシング」とは?
「フォーカシング」は、アメリカの臨床心理学者、ユージン・ジェンドリンが、編み出した方法です。
身体の中で起きている感覚(気になる感じ)を頼りにして、自分自身にふれていきます。
自分をより深く知ることができ、自己成長や悩みの克服をうながすと言われています。
手続きは、以下の通り。
①身体の内側に注意を向ける。
目をつぶり、頭のてっぺんからつま先まで、身体の部分に、上から順番に注意を向けていき、どんな感じがするか、見ていく。
②身体の中で、「気になる感じ」があるかを見つける。
③「気になる感じ」に、ピッタリくる言葉を探していく。
「気になる感じ」に、『〇〇な感じなんだね』と声をかけ、ピッタリくるかどうか、確認する。
④「気になる感じ」を、じゅうぶんに味わう。
⑤終わりにする。
「フォーカシング」と「マインドフルネス」は、体験するものが、似ている気がします。
ちなみに、「マインドフルネス」は、「今起きていること」に注意を向けていくこと。
「フォーカシング」同様、ゆっくり深呼吸をしながら、目をつぶったほうが、「今起きていること」に注意を向けやすくなります。
ただ、「マインドフルネス」の場合、身体の感覚だけでなく、周りの音、自分の中に起きてくるイメージ(映像)など、感じとる範囲が広い印象です。
「フォーカシング」での不快極まりない体験
私が、初めて「フォーカシング」を体験したのは、大学院(臨床心理学専攻)の授業。
イスに座って目をつぶり、教授のガイドのもと、自分の身体に注意を向けていきました。
まずは、頭から順番に、身体の内側に注意を向けるプロセス。
その後、「一番気になる感じは、身体のどこにありますか」とガイドされた途端。
両肩のつけねから、両腕が切断されたかのように、感覚がなくなる。
イスに座ったままの身体が、ぐるんと前方向に、一回転する。
吐き気がこみあげてくる。
それを伝えると、ガイドをしていた教授から、目を開けるよう言われました。
教科書的には、「変性意識」、つまり、「異常な意識状態」。
「フォーカシング」では扱わない、「対象外の体験」です。
深呼吸をしてから、目をつぶり、再び「フォーカシング」のプロセスに入ると。
またもや、両肩のつけねから、両腕がなくなってしまうという感覚が生じました。
ところが、しばらく身体の感覚を感じ続けていくと、太ももの上に、手のひらの感覚が現れてきます。
肩のつけねから手首まではないのに、手のひらだけが存在している。
何とも言えない、イヤ~な感じ。
すると、肩のつけねから、赤い管のようなものが、手のひらに向かって、ヘロヘロと伸びていく。
血管のような、筋肉繊維のような、赤黒いひも状のものが、伸びていく。
肩のつけねと手のひらが、赤い管でつながり、ちょっとホッとした、そのとき。
頭の上のほうから、「私を責める女性の声」が、聞こえてきました。
こんなのは、フォーカシングじゃない!
ここちよい、自分への気づきを深めるようなものでないといけない!
他の学生も、げんなりしている!
大学院にまで来て、この程度だなんて、情けない!
終わった時には、ぐったりしていました。
やっぱり私は、ダメな人間なんだ。
他の学生はみな、「リラックスした」など、ここちよい体験を報告しています。
不快な体験をしたのは私だけ。
ひとりで取り残されたような、みじめな気持ちになりました。
無意識に押し込めた思いが飛び出してきた
身体の感覚に注意を向けると、無意識に押し込めた思いが飛び出してくる。
身体と無意識は、つながっているんだ。
大学院生だった当時は、「フォーカシング」での不快な体験について、何も考えていませんでした。
ですが、最近になって、気づいたことがあります。
不快極まりない身体感覚に現れていた自分の課題
両腕が肩のつけねから消えてなくなり、ぐるんと前方向に、一回転するといった、「不快極まりない身体感覚」。
今思うと、身体が、「こんなに大変な状態なんだ!早く気づけ!」というメッセージを放出してきたと言えます。
「フォーカシング」に取り組むまで、私は、自分の身体に注意を向けることが、全くありませんでした。
自分の身体はおろか、自分自身を大切にするとか、いたわるといった意識がなかったとも言えます。
私の意識は、「母に褒められるような立派な人間になること」に向かっていました。
母にののしられ、罵倒され続けた過去を引きずる。
「立派な人間になれるはずがない」と、未来に不安を抱える。
「立派な人間にならなきゃ」という思いで、今を全速力で走り抜ける。
「今ここにある自分」に意識を向けることはない。
身体には、「自分を大切にしていない」といった私の課題が押し込められていたに違いありません。
そのため、身体の感覚に注意を向けた途端、私の課題が「不快極まりない身体感覚」となって飛び出してきたのです。
※「両腕が肩のつけねから切断されてなくなる」という身体感覚に込められた、別のメッセージについては、こちら。
私を責める女性の声に現れていた自分の課題
上のほうから誰かに声をかけられたように、ハッキリと聞こえた「私を責める女性の声」。
当時は、「幻聴が聞こえた」と思うほど、ゾッとするような体験でした。
今なら、分かります。
これは、私の母の声です。
母の思い通りにならないと、気が済むまで、私を罵倒し、ののしった母の声。
大学院を修了してから、20年近くにわたって自己探究を続けた結果。
私が苦しい思いをする根底に、「自責の念(自分を責める内なる声)」があることに気づきました。
母の言動を取り入れ、私自身を鼓舞する部分が、この「自責の念」。
私が立派な良い人間になれるよう、いきり立っている部分でもあります。
そして、私の母と同様、相手を鼓舞するために、容赦ない言葉でののしるという方法しか知りません。
「自責の念」が嵐のように吹き荒れるため、とてもではないけれど、自分を大切に思う余裕がもてない。
「自責の念」によって、心が削れに削れ、地獄の業火に焼かれるような苦しみにさいなまれる。
私が自分の身体に注意を向けたときに、聞こえてきた「私を責める女性の声」。
「生きづらいと感じる原因は、自責の念です!」と、私の根本的な課題を知らせてきたのです。
身体の感覚に注意を向けると、無意識に押し込めた思いが飛び出してきます。
私の場合、不快極まりない身体感覚や自分を責める声を通して、私自身の課題が浮き彫りにされました。
一方、過去にツライ体験を重ねた人でも、身体の感覚に注意を向けると、穏やかで温かい感覚が出てくることがあります。
「自分に必要なものはこれです」という形で、無意識に押し込めた思いが出てくるのかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。