慈悲の瞑想を続けても慈しみの心が育たない理由|自分を責める声との付き合い方

2026年10月23日

慈悲の瞑想を続けているのに、人に優しくなれた気がしない。

周囲の人と関わるときに、自分の中に「慈しみの心」が育っているとは、どうしても思えない。

そんな風に感じたことはありませんか。

 

それは、あなたの瞑想の仕方が悪いからでも、心が冷たいからでもありません。

「慈しみの心」が育ちにくい背景に、自分自身への思いが関わっていることがあるのです。

 

私自身、慈悲の瞑想を毎日続けたお陰で、随分と心穏やかな日々を送れるようになりました。

ですが、私自身に「慈しみの心」が養われたとは、とうてい思えませんでした。

 

今回は、慈悲の瞑想を続けても「慈しみの心」が育たない理由について、私が考えたことをお伝えします。

 

慈悲の瞑想をしても「あわれみ」しかない?

 

 

あなたがしていることは、あわれみ。  

 

身近な人から言われ、私はショックを受けました。

その方が、つらい状況にあると感じたので、少しでも助けになりたいと思って、私なりにサポートした後のことでした。  

 

とはいえ、私が相手の言葉にショックを受けたのは――。

ある意味、図星だったからです。  

 

私は以前から、自分の言動に、慈愛が欠けていることを自覚していました。

母性にあふれ、慈愛に満ちた人物とは、ほど遠い私。  

豊かで鋭い感受性をもったその人は、私の在り様を見抜いていたのでしょうか。  

 

毎日、慈悲の瞑想 ※1 を続けていれば、「慈愛(慈しみ)」が育つのではないか。  

そんな風に期待していたにもかかわらず――。  

慈悲の瞑想を毎日続けても、私の中にあるのは「あわれみ」。  

 

私が周囲の人におこなう親切な言動は、「慈愛(慈しみ)」から生じたものではなかったのかもしれません。

「人の役に立つ人間であることを証明したい」という思いが、強く働いていたのだと思います。  

 

※1:「慈悲の瞑想」とは、「慈悲の心(慈しみの心)」を育てるために、決められた言葉を、静かに心にしみこむように念じることを言います。詳しく知りたい方は、こちらもどうぞ。

 

「慈しみ」に欠ける私が、自己探究して気づいたこと

 

 

慈愛に欠ける私を深掘りしてみる

慈愛に欠けた自分自身にガッカリした私。

「マインドフルネス」の状態になって、自分に向き合ってみました。  

 

「マインドフルネス」とは、ゆっくりと深呼吸をしながら、目をつぶり、今ここで起きていることに意識を向けていくこと。

瞑想状態とも言えます。  

 

マインドフルネスの状態になると、自分で自覚できている意識(顕在意識)の覚醒がゆっくりと低下していきます。

すると、普段の生活では意識していないけれど、無意識の中に眠る大切なものが浮かび上がってくるのです。  

 

マインドフルネスの状態を保ちながら、私は、自分自身に声をかけてみました。  

慈しみや慈愛は、どうやったら育まれるんだろう。  

 

すると、自分の内側から、言葉がわいてきました。  

まず、自分自身を愛で満たしなさい。

自分を満たし、あふれ出した愛が、慈愛となり、周囲の人へと流れていきます。  

 

自分でも、そんな答えが出てくるとは思わず、正直、ビックリ!!  

もしかしたら、どこかで聞きかじったことかもしれません。

ですが、普段は意識にはのぼらず、無意識の中にたくわえられていた知恵が、マインドフルネスによって、立ち現われてきたのでしょう。  

私が自分を愛せないのは

自分の中からわいてきた言葉に、私は、大いに納得しました。  

私に慈しみや慈愛が欠けているのは、自分を愛していないからだ。  

 

自分を全否定する傾向がある私。

せっせと慈悲の瞑想を実践しても、砂漠に水をまくような感じだったのかもしれません。

 

私自身、自分を否定しがちなのは、常に、自分を責める声がわいてくるからです。

慈悲の瞑想だって、自責の念が頭の中に広がらないように、唱えていたところもあります。

 

私自身、自分を責める声が、あまりにも激しいために、自己否定がハンパなく強い。

自分を責める声と、自分を愛せないことは、関係があるかもしれない。

 

そのことに、改めて気づきました。

 

※自分を愛で満たす方法として、今の私が取り組んでいることについて、関心のある方は、こちらもどうぞ。

 

自分を責めるクセについて考える

 

 

自分を責める言葉が私を削る

ふと気づくと、私の脳内には、自分を責める言葉が飛び交っています。

息をするように、ごく自然に、自分を責める声がわいてくるので、あまり気に留めたことはありません。

試しに、マインドフルネスの状態になって、自分を責める声に意識を向けてみたことがあります。

 

そうしたら、こちらが気おされるぐらいの、ものすごい勢いで、私を責めてくるではありませんか。

いやはや、風圧でひん曲がって、骨肉が削られるほどの勢いです。  

 

しかも、心をくじくような、きつい言葉が飛んできます。

  • こんなヘマをして、本当に能力がない!
  • 職場の人たちから、使えない奴だと思われたに違いない!
  • 愛想もないし、誰からも信頼されない、ダメ人間!  

 

改めて自責の念に向き合い、自分でもビックリしました。

これほどの勢いで自分自身を削っているとは、夢にも思わなかったからです。

 

せっかく、慈悲の瞑想の時間を取って、自分を慈愛で満たしても、端から削られていく。

周りにあふれ出すまで、私の中に愛がたまることはない。

だから、私には、慈しみや慈愛の心が現れない。  

 

逆に言えば、猛烈な勢いで自分を削りまくる声が、慈悲の瞑想を唱えている間は静まっているので、心のダメージが減少しているとも言えます。

 

私を責める声は悪者ではない  

私を責める声が、猛烈な勢いを持っているのは――。

ダメな部分にむち打って、良い人間に矯正するという「使命」をもっているからです。  

 

私が3~4歳の頃、母は嫁姑問題で心が折れ、行き場のないイライラを私にぶつけるようになりました。

母自身、つらい生い立ちを抱えており、自分一人で感情を処理することが難しかったのです。  

 

「私が悪い子だから、怒られるんだ」と信じ込む。

「このまま、ママに嫌われたら、死んじゃうかもしれない」と怖れる。

「だったら、良い子になって、ママに好かれて、生き延びるしかない」と決意する。  

 

母に好かれるような素晴らしい人間になって生き延びるため、自分を一喝するメカニズムが生まれました。

ある意味、命がかかっているので、理想的な人物像から少しでも外れると、鬼気迫る感じで、私を修正しようとするのです。  

 

悪者ではないと気づいて思うこと

私を責める声は悪者ではなく、「より良い人間でありたい」という健気な思いの現れでした。

そのことに気づくと、「慈愛に満ちた人間になりたい」という願いも、「母に好かれるような素晴らしい人間になりたい」という願いの一端かもしれないと思えてきます。

まずは、「自分らしく生きること」を大切にして、「慈愛が育まれたらラッキー」ぐらいに考えることにしました。

 

それに、自分を責める声が静かになったら、自分を愛することにエネルギーを向けられるようになるかもしれません。

それまでは、できることを1つ1つ、やっていこうと思っています。

 

私の場合、慈悲の瞑想に取り組んでも、「慈しみの心」が育まれたという実感は得られませんでした。

ですが、慈悲の瞑想には、自分を責める声が静まり、心のダメージが減るという、大きな効果があったのです。

「慈しみの心」が育たないからといって、続けても意味がない、ということではありませんよ。 

 

※自分を責める声がやわらぐことがあった方法と、試すときの注意点について、関心のある方は、こちらもどうぞ。

 

「慈しみの心」を育てたいのに、うまくいかないあなたへ

慈しみの心を育てたいと思って、努力を続けてきた。

それなのに、自分を責める声は、勢いを増してくる。

そんな自分に、ため息をついてきたのではないでしょうか。

 

まずは、話してみるだけで構いません。

慈しみの心を育てようと、一人で取り組み続けてきた。

それだけで、十分すぎるくらい頑張ってきたということです。

「もう少し、楽になってもいいかもしれない」と感じたなら、その気持ちを最初の一歩にしてください。

 

私が提供している「ストレングス×パーツ統合アプローチ」では、あなたを責める声を発している心の部分(パーツ)にも、その奥で必死に頑張ってきた気持ちにも、一緒に向き合っていきます。

 

👇 まずは体験セッションから(初回限定・50分・2,500円)

 

 
 

 

 

「もう少し読んでから考えたい」という方は、こちらもご覧ください。

 

※自分や他者の中に悪者を探すことをやめたいと考えている方へ。

※自責の念が強くても、自分に優しく接する、手軽な方法を試してみたい方へ。

新着情報についてお知らせしています。フォローしていただけると嬉しいです。